今北産業風・ねっとさーふぃんの記録@ほ(ん)の(り)むらさき

毎日やってるネットサーフィンの記録から一年間の自分を振り返るためのチラシの裏です

このblogについて

人間って書かないとどんどん忘れていくので、こういうカテゴリも必要かな、と思い増設。





【書いてみたら長すぎたので、内容を省略してみた】


・このblogはHN:ほのむらさきのWebClipperです

・このblogは外国語勉強のための構文チェッカーでもあります。

・このblogは私が頭の中をすっからかんにするためのツールです。


















以下めちゃくちゃ長い宣言文書。

おおむね、人の願望やこだわりというのは割合良い影響を及ぼさないので
長い文章にして吐き出すことによって“捨てる”ことに意味があるんだよな。というのが三番目の要点です。

活用できるかはわかんないけど、とりあえず残しておきゃなんかのためになるだろ、活用できなかったとしても、頭の中からとりあえず出して生活や日常活動のリソースを確保するってだけでも情報過多のこの時代有益な行動でしょっていうような内容。
というわけで、捨てた方がいいけど、一応こういうこと考えてたんだよな、というだけのただのLOGにしかならないことを承知で、備忘LOG!







もともとblogやTwitterFaceBookを使ったことがありましたが
結局必要性を感じずに放置してしまうことが自分は多々ありました。
結局のところ、それは私自身の脳がそれほど産出的なアイデアを保有できるほどの天性を持っていなかったからなのでしょう。そしてそれでよいのです。それが自然なのです。



そのころとはうってかわり、現在ビジネスマンとして零細に勤めながらの私には日々膨大な情報がはいってきます。
この多忙な日々をすごす内に
人間というのは本当にいろんなことを忘れてしまう生き物なんだな、と思いました。
役に立つことも、思い立ったこともすべて、あるいは自分が大事にしていたはずのことさえ。

世の中というのはタイミングがすべてで、それを逃すと本当にチャンスはめぐってこない。
やりたかったことや、考えていたこと、アイデア、いろんなものが熟していったり行動に移す前にどんどん社会というのは流れていってしまう。



自分がどんな情報に接して、それに対してどんな活用ができるかを考えたり、それを行っていく方法などを知らないままにすべてが流れていってしまうのは本当にもったいないことだな、と思いました。
また、同時にそれをもったいないと思ってずっと保持し続けることもまた、私にとって有害であると感じました。その理由については、後半で語ります。





blogやSNSは発信と受信の双方向性と共有に特徴があり、それこそが用途であると自分は感じました。
日々自分が感じたり接したり感化を受けた情報そのものを、LOGとして残しておく。
それも、個人的なものとして残しておくだけではなく、他者と共有したり公開することによって、より価値のあるものとして置き換わっていく。

これが、自分が生まれたこの時代において与えられたひとつのリソースを有効活用する方法なのだな、と思いました。
学生時代の自分には活用しきれなかったものを、今こうして活用できているな、と実感できるのは幸せなことです。





情報過多の時代であるとはいえ、その波をどのように読みサーフしていくかはまさに自分次第。
それを活用できる環境に身をおき、また波を避けるのではなく、それを上手に活用して風と波を読めるようになることを私は望みます。









またこのblogやSNSにおける自分の活動は、自分自身が持つ情報やアイデア、考えや感じたことといったことをリソースとして活用するための備忘録であり、また普段言葉数の少ない自分が自分の意見を発するときに、どのような言語構成をしているのかを客観的に視覚化するためのツールであります。


日常会話ができないのに、手紙やインターネットになると饒舌になる人間はいますが、まさに自分もその一人。
コミュニケーション能力はあるのですが、言葉で伝えられる情報よりも文章で伝えられる情報量の方が圧倒的に多いのです。それは、モナリザの絵の美を言葉で語るよりも、実物の前につれていってただ黙して眺める方が圧倒的に情報量が多いのと同様。文字や言語の源流は象形文字であり、象形文字の源流は絵であり、絵が表現したいこととはつまり今視覚捉えている三次元現象そのものなのです。

であれば、自分がこれから言葉というものを使ってコミュニケーションを行わなければならないとき、自分の考えやイメージをどのような言葉や文法、構文で表現しているかを客観視するためのツールが必要であると考えました。

多くの場合、語学力の成長が早い人はあまり複雑なことを考えずに感嘆や驚嘆などをメインに用いた感情表現や事実表現、評価が多い。
反面、私などもそうなのですが、物事を複雑に考え過ぎてしまったり、瑣末な表現に囚われやすい人間は、語学力の成長如何の前に、自分自身の考えや意見を嘘偽りなく正確に伝えることにこだわってしまうため、フィールドワークや実践に弱い。

しかし、それこそ身に着けたいと思っている語学力なのであるという大きなジレンマでもあります。
結局のところ語学力とは、自分の考えをまとめて発信するコミュニケーション能力のことであり、それはつまり自分の考えや思うところの表現方法そのものであり、言葉とはむしろ文学的で芸術的な要素の強い概念であるからです。

ゆえに、このSNSやblogはそのための自分の訓練の場であり、主体性を持って人生を生きていくための、あるいはそうであると感じ、またそれを確認するための私にとってのひとつの武器であります。
自分自身が何を考えているかを知ることは決してたやすいことではない。
自分を知る、とは過去から現在にかけてあらゆる人が試み、そして完全には行えないと分かっているフィールドワークのひとつであります。

しかし、わたしはそれを行いたい。

自分自身の言葉ではなかったとしても、接する情報や興味をもった私のCLIPが私の考えや指向性を教えてくれる。
またそれを用いて複製(トラックバック)あるいは共有(シェア)されていった情報が、私の思っていることや考えていることを具体化し、表現してくれると考えます。

なぜならば、学生時代の私の脳みそこそが、私自身の真実の姿であるからです。
つまり、すべからく人とは反応する生き物であり、刺激による反応こそがアイデアであると。
それゆえに、すべてのものの本質とはオリジナルではなくコピーであり、しかしその中にあるわずかな変化こそが、人が社会や外部に対して行えるひとつの貢献であると知ったからです。

つまりより多くの情報に接し、それに対して自分が反応していくことが、自分の脳をより生産的な脳へと作り変えていくことであると私は考えるのです。
完全なオリジナルを創りだす必要などない。すべては共有財であるのだから、そこに与えられているものや近くにあるものを組みあせて、便利なものを創っていけばよい。
それがなるべく自分だけではなく、自分以外の誰かにとっても有益なものとなってくれれば、それでよいのです。









最後にもうひとつ、もっとも重要なこととして、人とは器であるということの意味を脳的に説明すれば、人は考えや意見や感情や言葉を表現する、ということの真の意味が何であるかをより正確に捉えることができると私は考えています。

つまるところ、語られた言葉や示されてきた興味も反応も、すべては人が器に過ぎぬということを意味するものであると私は気づきました。
入ってきた情報が脳で処理され、それが表出されている。
LOGとは残す、というニュアンスを含んでいるが、同時にそれはGARBAGE、つまりゴミ箱でもある。
捨てる、と残す、というのはずいぶんと異なる考え方に思えるかもしれませんが、しかし物事というのはすべからず流れて循環していくものです。
自分がゴミとして捨てたものは、処理されてやがてまた自分の目の前に帰ってくる。

捨てるも残すも、ニュアンスは違うかもいしれないが、本質的には同じこと。
手紙を入れたビンを海に流すという行為そのものは、ゴミを捨てる行為とも捉えることができるが、同時に誰かにそのメッセージが届くことを願って送信しているとも捉えられる。

その双方に意味があります。
陸の孤島、情報の孤島にいる私が、自分の願いを願いだけで終わらせず、ゴミになるのかもしれずともそれを形にして、捨てることは、私の心の新陳代謝のために必要なことなのです。

叶えば一興。
叶わずともまた、それで良し。少なくとも、滞らせぬことはしなかった。
であれば、その流動を構築したのちは、なるべくその流動が早く動くようにしていくことが、人の新陳代謝を高める活動であり、それこそが劇的な変化を人にもたらすと思います。




頭に入ってきたものは、どんどん出してしまう。
何かしがの形にしてきちんと出していかなければ、溜まっていく一方であり
溜まってしまったものの中で、活用されていないものは滞る。
滞りは淀みや濁りを産み、精彩さを欠くことは人の代謝を遅くする。
であれば、活用されていないものは、少なくとも捨てねば。



捨てることもせず、投げることもせず、ただ持っておくこと。
それは私にとって、大きな損失を意味すると考えます。
それゆえ、形にならぬものを形として吐き出し、捨て、しかしそれは残すことでもあり、流動させていくことでもあり、手放すことでもあり、投資することでもあり、さまざまな意味合いと価値を持ってここに流れていくのであります。

流し、忘れ、ログであり、ゴミ箱でもある。
それこそがこのblogの目指すところであり、個人としてのメディアの果たす役割であります。
それを建設的で有意義な形にしていくこともまた、それを公開という形で行う私に課せられた役割であります。

















他者も環境も変化せぬものであるとすれば、変化できるのは自分だけ。
ならば、変わっていかねばならぬ、と私は思います。

そのために、このblogを通じた私の活動が、きちんと私自身へと成果となって返ってくることを望みます。
そうして生まれていった循環サイクルが、同じ事を繰り返していく私の生活の中で、多様な変化と可能性を私自身に産み出してくれること、また指向性や方向性を私自身に示してくれることを望みます。

それゆえに、単なる感情の表出や愚痴だけに終わらない、有意義かつ建設的なメディアになってくれることを私は望むと同時に、その通りに行動していきたいと思います。

以上。



















【追記:@2015.01.27】

ちなみに巷では外国語を話せるようになるには以下が重要であるという。


①とにかく単語を増やす
→ おおよそ6000単語で会話の八割を網羅できる
②言い回し【構文】を覚える
→ 母語も同様で、営業やスピーチに長けている人はそれなりに経験を積んでいる
→ おおよそ150通りほど覚えれば良い

③スピーチ原稿や論文を自分で書いてみる
→ 普段自分がどのような言い方をして、どんな内容を話しているかの構成を分析できれば、外国語を覚える際にどこに注力すればよいかがわかる