今北産業風・ねっとさーふぃんの記録@ほ(ん)の(り)むらさき

毎日やってるネットサーフィンの記録から一年間の自分を振り返るためのチラシの裏です

賢いノートの取り方

■勉強ができない人は、板書を作業としてノートに書き写す(A)

勉強ができない人は、教師が黒板に書いたことを、そのままノートに書き写すだけだ。これは、別に授業を聞いていなくたってできる。ずーっと他のことを考えながら授業を聞いていても、教師が板書をした時だけ、そのままノートに写せばいいのだ。これは、非生産的な作業である。脳に情報を入れていない。おまけに、きれいにノートを取ったりなんかしていると、“ちゃんと授業を聞いていた”ような錯覚を覚えるから困る。

■勉強ができる人は一度脳にインプットしてから、アウトプットとして板書を写す(B)

勉強ができる人は、教師の言っていることを一度脳にインプットしてから、アウトプットとしてノートに板書を書く。
これは、なかなか難しい作業である。まず、教師の言うことを注意深く聞いていないといけない。集中力が必要だ。それから、予習をしていないという前提で、新しいことを即座に脳へインプットして、咀嚼していかなければならない。
大変な作業に思えるが、毎授業やっていればおそらく慣れるのだろう。この手法でノートを取っていれば、授業中だけでも膨大な情報が脳に一度取り込まれる。

■復習時に生まれる圧倒的な違い

このノートの取り方で生まれる大きな違いは、復習時にある。勉強が出来ない人は、授業中に教わったことに対しての脳の回路ができていないから、ほとんど新しいことを復習で勉強するハメになる。
それに対して勉強ができる人は、一度授業中に脳にインプットしているので、さらっと教科書を読み返したり、問題を解いたりすれば思い出せる。
一度覚えた情報よりも、一度忘れてまた思い出した記憶の方が定着することは、最近の学説では常識となっている。
この二者が、テスト前に同じ時間勉強したら、どちらが良い点数を取れるのか。答えは明白だろう。

■この考え方はビジネスにおいてこそ必要

実は学生時代、私も勉強ができない人のノートの取り方をしていた。だから、テスト前は苦労した。すべてを一から勉強し直していた記憶がある。しかし、最近ようやくノートの本来あるべき取り方に気づいて、それからは勉強することが楽しくなった。
そして、このノートのとり方は、ビジネスシーンにおいてこそ必要だと思っている。というのも、仕事では会議などでメモをすることが多いが、やはり一度脳に入れていないと、後でメモを見返した時にいったい何のことなのかわからなくなる。時間的制約の多いビジネスシーンでこそ、このノートの取り方の意味に気づくことができたのだ。

■日本の教育は講義スタイルのままでいいのか

このノートの取り方の違いに気づくと同時に、私は日本の教育における「講義スタイルの限界」について考えた。現状の教育手法でも、できる子はできる。しかし、できない子は全然できない。それは、講義スタイルという受動的な授業に対して、能動的になる生徒とそれを受け取らない生徒が出てきてしまうためだ。授業を受け取らない生徒は、板書を写して満足してしまう(あるいは、ノートを取ることさえ放棄する)。そして、置いて行かれた生徒は、置いてけぼりのままだ。
アメリカの教育のように、先生が中心となって、生徒や学生がわいわい意見や質問を投げかける全員参加型スタイルは、理想だと思う。しかし、日本の国民性を考えると現実的ではない。
私が思うのは、もっと自習型の教育が広く認知されてもいいのではないか、ということだ。極端な話、自分で教科書を読んで、問題を解いて、わからないところを質問するというスタイルだ。少なくとも、私にはそのやり方が合っていたように思える。中学生ぐらいから、自習型の講義は可能であると思う。